『この世界の片隅に』を楽しむための・・・簡単に書きすぎる日本の歴史 その5 November 09 [Wed], 2016, 17:13

『この世界の片隅に』を楽しむための・・・簡単に書きすぎる日本の歴史 その5 November 09 [Wed], 2016, 17:13

2020年1月28日 オフ 投稿者: shima_Shima.Shima

『この世界の片隅に』を楽しむための・・・
『簡単に書きすぎる日本の歴史 その5』 (すずさん、19歳)

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前記事からの続きになります。
『この世界の片隅に』を楽しむための・・・簡単に書きすぎる日本の歴史
その1 :昭和元年~11年(すずさん、誕生~10歳まで)主な出来事・・・満州事変
その2 :昭和12~15年(すずさん、11歳~14歳まで)主な出来事・・・日中戦争
その3 :昭和16~18年(すずさん、15~17歳まで)主な出来事・・・太平洋戦争・開戦
その4 :昭和19年(すずさん、18歳)主な出来事・・・太平洋戦争・真っ最中
コチラも合わせて、どうぞ!
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(※日付が分からないので、ここからは予想年齢です。お付き合いください。)

【すずさん、19歳 1945年(昭和20年)】

「アメリカ軍、硫黄(いおう)島に上陸」 2月19日、(※硫黄島とは=小笠原諸島の南端にある島)
太平洋戦争末期・・・もう戦争の勝敗は明らかであった。
アメリカ軍は11万もの兵力で硫黄島へ攻撃を開始した。硫黄島を落とされれば、後は日本本土のみ。
サイパン島よりも硫黄島の方が日本本土に近いため、より効果的な爆撃が出来ると攻めてきたのだ。
日本軍は島全体に地下要塞(ようさい)を建設し、最新式のロケット砲を準備して、
徹底的に戦う準備を整えておいた。(※要塞とは=軍事的な防備施設)
日本軍は2万人が戦死、アメリカ軍は6千人が戦死・2万人以上が負傷するという激戦となった。
そして3月26日、硫黄島はアメリカ軍に落とされる。

「東京大空襲」 3月10日、午前0時8分
アメリカ軍の長距離爆弾機B29・約300機がこの日、無数の焼夷弾(しょういだん)を東京に降り注ぎ、
町は一瞬にして火の海と化した。(爆弾の数はおよそ38万発と言われている。)
約2時間半の爆撃で都心の約42平方キロメートルを焼き尽くし、
死者10万人以上、焼失家屋26万戸以上の被害が出た。
(単独の空襲によって生じた被害としては、世界最大のものと言われている。)

その後、空襲は大阪・名古屋・神戸・横浜など、ほとんどの大都市で行われた。
さらに6月17日頃~終戦詔書が出される8月15日までは、中小都市も合わせると50万人以上の死者を出した。
これによりアメリカ軍は、「戦争を続けていこうという、意志を砕こう」としていた。
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「呉軍港空襲」 軍艦「大和」を建造した軍港であり、日本一の海軍工廠(こうしょう)で栄えたまちであった為、
(※海軍工廠とは=艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場(工廠))
軍艦・戦艦を沈没させるためなどで、幾度となくアメリカ軍から狙われた。

同年3月19日から同7月28日まで、大規模な空襲6回を含めて計14回に及んだ。
詳しくは→「呉戦災を記録する会」「呉市街空襲」

3月19日:(呉軍港)戦闘機350機よる空襲。(被害は少なく終わり、海軍の保有する艦船への被害も小さかった。)

5月5日:(広工廠と第11航空廠)10:30頃、戦闘機172機による爆撃。
呉軍港に停泊していた「伊勢」、情島沖にいた「日向」などが、主砲による大遠距離射撃を行ったが有効弾は無かった。

6月22日:(呉工廠)9:20分頃、戦闘機290機による空襲。
壊滅的な被害を受けて、工廠勤務者も多数死亡。工廠は機能しなくなってしまう。

7月1日~2日:(呉市街地)呉市民に最も大きな被害を及ぼした空襲。呉市は火の海となり、
和庄地区では大防空壕の入り口にあった民家が焼け、火災の熱気で蒸し焼きとなって死んだ人も多数いた。

7月24日と28日:(呉軍港)戦闘機950機による空襲。
日本軍も地上・海上からも高角砲による対空砲火で迎撃するも、多くの艦船が大破着底となり、
甚大な被害を及ぼした。 この空襲により呉港は軍港としての機能を完全に喪失した。
(重巡洋艦「青葉」、7月24日の空襲で・・・「大破、着底」・「呉 鍋海岸」とある。)

(↓産経Web記事、シリーズ【戦争の記憶】)
(4)呉空襲 「もうだめだ」…焼夷弾の雨 3回にわたった7月の空襲「日本人の戦争継続意欲そぐため」
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「4月1日、とうとうアメリカ軍が、沖縄本島に上陸」

日本軍は、昼間は塹壕(ざんごう)に潜んで砲撃に耐え、夜になるとアメリカ軍陣地に攻撃を繰り返した。
(※塹壕とは=敵の弾を避けるための防御施設。溝や穴を掘り、土などを積み上げたもの。)
沖縄戦では、日本兵だけではなく、民間人も強制的に参加させられた。

14~17歳の少年は「鉄血勤皇隊」として戦場への伝令の役目を与えられた。
女学生は「女子学徒隊」として、看護要員にされた。兵士は特攻作戦(特攻隊)も続けていたが、
敗戦の流れを変える事は出来ず・・・本島南部に追い詰められていった。
南部には「ガマ」と呼ばれる洞穴が数多くあり、アメリカ軍に捕まるとひどい目に合わされると
教えられていた人々は、集団自決を選ぶものも少なくなかった。
民間人を巻き込んだ沖縄戦は、3カ月を要した。戦没者は約18万人以上(所説あり)と言われる。
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「戦艦大和の最期」

4月5日:アメリカ軍の沖縄上陸(4月1日)に際し日本軍から4月7日に総攻撃をすると通達がある。
海軍独自の『天一号作戦』で、生還を期さない海上特攻であった。

4月6日:「一億総特攻のさきがけに」と伝えられ満開の桜に見送られながら、15時20分山口県徳山沖から出発する。
6時45分には、早くもB29に発見される。そして潜水艦からも攻撃される。(被害はほぼなかった)

4月7日:午前、空母搭載機が「大和」を発見。昼食後の12時32分に、ついに乗員が米軍攻撃機を発見する。
「今の目標は、5機・・・10機以上、30機以上」と緊迫した状態が艦内に伝わる中、
レイテ沖海戦を生き抜いた乗員に動揺はなかったという。

12時32分「撃ち方はじめ!」「大和」の主砲から放たれた三式弾が、米軍機を襲う。
米軍の第一次攻撃機第一波は100機。初手から「大和」は火薬倉庫付近で火災という深刻の被害を受けた。
13時20分頃、第2派119機・・・。14時20分頃まで続いた攻撃で(爆弾や魚雷)速力は低下。
14時23分、左舵側を大きく傾斜、転覆ののち、各主砲塔の弾薬が誘爆し船体が2つに折れて沈没。
最後の命中魚雷から沈没までは10分にも満たなかった為、退避する間もなく
沖縄に辿り着けぬまま、乗員約3000人が戦死した。坊の岬沖の海底で今も沈んでいる。(1999年に発見)
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「ドイツが降伏」 4月30日、ヒトラーが自殺。

「ポツダム宣言、発表」 7月、ドイツ・ポツダム 日本に無条件降伏を求める。
連合国3か国(アメリカ・イギリス・ソ連)は会議を開き、日本側に提示した。日本はそれを黙殺。
アメリカはその頃、昭和17年頃に開発が始められた原子爆弾が完成していた。7月25日投下命令が下る。
その翌日に「ポツダム宣言」を発表されたので、日本が黙殺しなければ投下は避けられていた・・かもしれない。

「広島、原子爆弾投下」 8月6日、午前8時15分17秒
町全体を灰に変え、爆心地から半径500メートル以内の人々の90%以上を即死させる威力であったと言われる。
当時広島市の人口はおよそ35万人、原爆投下~同年12月までの被害者は13~15万人とされる。
広島市への原子爆弾投下
【戦後70年】雲一つない広島に、原爆は落とされた 1945年8月6日はこんな日だった

「ソ連、「日ソ中立条約」を破り宣戦布告」 8月8日
2月にあった国際会議(ヤルタ会談)アメリカがソ連に対し、いつまでも降伏しない日本に痛手を負わせようと
ソ連に有利な条件を出して、参戦を促していた。
ソ連軍は満州や樺太へ侵攻を始める。日本軍にはもはや戦う力は残っていなく、命からがら逃げてくる事となった。

「長崎、原子爆弾投下」 8月9日、午前11時2分
当時長崎市民およそ24万人のうち、約7万4千人以上の人が12月までに死亡した。

「ポツダム宣言、受諾」
8月10日、午前0時すぎ 御前会議 天皇はポツダム宣言受諾を表明。日本側が
「昭和天皇の地位継続を唯一の条件」として提示したため時間を要し、12日に連合国側から受諾受け入れの回答。
8月14日、改めて御前会議が開催され、ポツダム宣言の受諾が正式に決定された。
この時、昭和天皇が朗読された詔勅(しょうちょく)がレコード盤に録音され、翌15日正午に放送されることが決定。
「15日正午より重大発表あり」「国民は必ず聞くように」と周知され放送。世に言う玉音(ぎょくおん)放送である。
玉音放送に法的効力はないが、当時の日本国民にとって天皇の発する言葉は、法よりも重いもの。
暑い日差しでセミが鳴く中・・・ラジオから流れた難しい言葉で並び、雑音が多く聞き取りにくい放送。
《朕(ちん=天皇陛下の事)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み・・・堪え難きを堪え、忍び難きを忍び・・・》

初めて聞く天皇の肉声、この放送を聞いた時、あらゆる犠牲と苦難に耐えてきた国民は、
泣き出すものが多かったが、怒り出したりするものもいて、戸惑いと気の抜けた感じなどが入り混じった
複雑な想いを味わった。こうして、人々は「日本は負けた」、「戦争が終結した」ことを知ることとなった。
日本が降伏したことによって、第二次世界大戦が終わった。
「真珠湾攻撃」からみると4年、「満州事変」から考えると14年にも及ぶ長い戦争であったー。

(歴史ここから先の詳しい本がなかった為、ここで終わりとさせていただきます。)
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「この世界の片隅に」、映画ライターさんの記事
戦後何年経っても語り継がなければならない
”時代”がある『この世界の片隅に』昭和20年、広島・呉…

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『この世界の片隅に』(←公式サイト) 11月12日(土)公開
町山智浩 大絶賛!!2016年ベスト映画「この世界の片隅に」を語る 2016年11月1日

12日(土曜日)か13日(日曜日)に是非!!映画館へ

(初日&2日目観客動員数が大事らしいです)
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↑映画秘宝の写真 (2019年のもの、後付けしました。)